貴重な史料が残る

八幡神社

はちまんじんじゃ


治部橋の八幡神社

西里近辺の八幡さまというと、
谷地八幡宮や寒河江八幡宮・溝延八幡宮が思い浮かぶと思います。
三社とも、お祭りが盛大に行われることは有名です。

奴・流鏑馬・・・・・・

え?

西里に八幡さま?

あったけ?

はい、あるんですよ。
しかも、河北町にとっても山形県にとっても重要な歴史を持つ八幡さまらしいです。

西里の八幡神社は水田に囲まれています。

西里小学校の体育館の西側の農道を西に天満地区の方に向かって進むと、
大きな銀杏(イチョウ)の木が目に入ります。
イチョウの木が生えているところはまわりの水田よりも1m以上高く、土が盛られています。
夏は草が生い茂ってしまい、
蛇でも出そうな藪状態になってしまいますが、
よく見ると、この中にお社があることに気が付かれるでしょう。

このお社が「八幡神社」です。


八幡神社と刻まれた石碑

お社の脇には「八幡神社」と刻まれた石碑があります。

私が小学生のときのスキーの授業で、
この神社の脇の坂でスキーの練習をしたこともありました。
しかし、
ここが八幡神社であることを知ったのは最近です。

以前、天満の方にこの八幡神社のことを伺ったら、
昔はもっと神社の敷地は広かったとか。

今は藪に覆われてしまうことも多い神社ですが、
かつてはもっと手入れがなされていて、
ここを訪れる人も多かったのではないでしょうか。

水田の中に大きく伸びるイチョウの木。
このイチョウにも生命力を感じさせられます。
社は小さいといっても八幡神社。
ここを通るたびに、畏敬の念を感じさせられます。

天正十二年六月七日。
谷地城主「白鳥十郎」は山形城で殺されてしまいます。
その後、山形軍と谷地・寒河江の連合軍の合戦となりますが、
谷地・寒河江勢は山形勢に敗れ、
白鳥氏と、寒河江の大江氏はともに滅亡してしまいます。

山形城主の最上義光のことをよく思わない人が多いようですが、
合戦後、義光は谷地・寒河江には寛大な処置をとったようです。
白鳥家の重臣だった青木家に対して出した「預置状」、
つまりは所領の安堵状が現存しています。


青木家文書(『河北町の文化財』より)

「木の下在家、御年貢三貫文・・・・・」

現代風に言うと、
「木下在家は、青木家が親の代からの所領であるから、申し出により今まで通り所有を認める」
という内容だそうです。

青木家は白鳥十郎の350年忌のとき、
重臣中の重臣、四天王として上下をつけて法要に参列した家柄でもあります。

木下とは治部橋地区に鎮座する木下八幡神社のことで、
青木家は木下八幡宮に奉仕する家だったそうです。
しかし、
残念ながら木下八幡宮は近世初期に故あって廃社となってしまっているようです。

治部橋地区にある八幡さまは、今回紹介している田んぼの中の八幡神社のみ。

最上義光が所領を安堵した八幡さまとは、
つまり、木下八幡とはこの八幡さまだったのでしょう。

最上義光が白鳥家の家臣に出した安堵状で現存するのはこの青木家の文書のみ。
青木家文書は河北町の歴史を知る上でも、
最上義光のこと知る上でも貴重な史料です
青木家文書は河北町指定の有形文化となっています。

今は田んぼの中で、
訪れる人もあまりなく、
大きなイチョウのもとでひっそりと過ごしておられる八幡さま。
歴史を知る上でも貴重な八幡さまです。

八幡信仰について

戦勝




参考資料

『河北町の文化財』,山形県河北町河北町教育委員会,平成16年11月

鈴木勲,「慈恩寺と西里に関する一考察」,『西村山地域史の研究 第30号』,平成24年

鈴木勲,『天正最上軍記・実録 講演資料』,河北町誌編さん事務局,平成22年4月

『河北町の歴史 上巻』,河北町

『西里の歴史ものがたり』,西里地区公民館,昭和62年8月

今田信一,「ふるさとの文化財(42)」,『町報かほく 昭和48年4月号』,昭和48年4月